松島榮治シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(七十四)
浅間押し供養碑
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▲天明3年浅間焼け供養碑
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鎌原観音堂参道入り口の右側、村道に沿って石造文化財が並列されている。その中に一際大きく目立つものがある。いわゆる「浅間押し供養碑」である。
碑は、3段からなる台石と碑身からなる。碑身は、頂部を山形にした角柱形で、その大きさは、高さ153、正面幅48、側面幅45センチを数える。
3段目の台石には、
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とある。
また、碑身には四面全体に所狭しと戒名が刻まれ、特に、正面下部には、
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とある。
これらの銘文から本碑は、鎌原村の総意で、文化12年(1815)近村の黒岩長左衛門(宅七)や干川小兵衛など篤志家8名の援助によって、天明3年“浅間押し”の際に遭難した鎌原村477人の菩提の為に、建立したことは明らかである。
ところで、碑身四面に刻まれた戒名は、最近、摩滅によって解読不可能な部分が多くなってきた。このため、資料館では記録保存のため解読作業を行なった。その結果、92家族5個人併せて464人の戒名の解読に成功した。
この結果、明らかになったことは、「流死者477人」と明記されているにも係わらず、戒名数は464人分で、13人分不足することである。そこで、不足分の13人について検討すると、鎌原氏関係の3人、七兵衛夫妻、童子・童女6人、他に2人であることが判明した。
この事実によって、本碑は、碑面に刻まれた464人の墓標として建てられたものと思われる。本碑に刻まれていない13人の墓標は、余所にある可能性があるのである。そう見ると本碑の形は、江戸時代中期以降に一般化した“角石塔形墓標”とされるもので、通常の供養碑とは異なるのである。
※この記事は広報つまごいNo.597〔平成14年(2002年)8月号〕に記載されたものです。
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