松島榮治シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(七十五)

黒岩長左衛門の事績

▲9代長左衛門 大栄の墓
(大笹 無量院墓地)

 「黒岩家の家記」によれば、当家は元和年間(17世紀前半)の初め、中間たち36人で大笹の地を切り開いたとされている。以来、黒岩家は大笹村の名主と問屋を兼務してその名声を高めた。中でも、9代長左衛門である大栄と、10代長左衛門の侘澄の事績には目立つものがある。

 もとより大笹村は、“磽かく不毛”の地で、その生産性は低かった。このため生活の支えは、駄賃・宿稼ぎ・山稼ぎ・市場に頼ることが多かった。いきおい長左衛門家の稼業は、問屋として仁礼宿(須坂市)から貨客を招致し、これを沓掛宿(軽井沢)へ継送することが主となり、これによる収益は大きかった。

 ところで、江戸時代も中期を過ぎると、商品経済の進展により、人々の往来や荷物の輸送が盛んとなった。こうした中で、荷物の“付通し”が始まり、これによって物資の流通はしだいに、大戸宿を根拠とした“大戸通り”へと移り、大笹宿の衰退は目に余るものがあった。

 こうした中に9・10代長左衛門の活躍があった。長左衛門家は、早くから質屋・酒造を営んでいたが、この頃、酒造では信州米を多量に仕入れ「大笹守」と銘うって、草津温泉や追分宿に出荷し好評を得た。また、元文3年(1738)の鹿沢温泉、明和4年(1767)には、万座温泉開きにも係わった。

 天明4年からは、噴火の際に浅間嶽下に湧き出した湯を大笹宿に引き湯した(本シリーズNo.9参照)。そして、寛政9年(1797)には、万座硫黄の採掘に係わり、享和3年(1803)には、長野県と草津村境の地で鉄砂を試掘するなど、その事績には目覚しいものがあった。

 こうした一連の長左衛門の事績は、流通事情の変化によって失った分を取り戻すための行為とする説もある。しかし、この間、長左衛門は、噴火の際に埋没した鎌原村への積極的な援助、浅間嶽下からの引き湯工事による貧民救済、そして、後世への戒めにと、蜀山人の協力を得て「浅間碑」の建立(本シリーズNo.30参照)など、社会・文教事業も併せて行なったのである。

 黒岩長左衛門は、大笹宿の名主兼問屋として、ただ自家の利益のみを追求するのではなく、現在の行政に求められている“地域の活性化”に果敢に取り組んだのである。

※この記事は広報つまごいNo.598〔平成14年(2002年)9月号〕に記載されたものです。

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