松島榮治シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(七十八)
下屋家文書
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▲下屋家文書(貞治元年の譲状)
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三原の下屋悦夫氏家には、代々伝わってきた南北朝期を含む室町時代の18通にのぼる古文書がある。それらは、日本固有の山岳信仰と仏教の教えが混ざりあって成立した“修験道”関係のものであり、嬬恋村ではもちろん群馬県としても極めて貴重な資料である。
下屋家に伝わる古文書は、後に写されたとみられる建久5年(294)のものは別として、南北朝期の貞治元年(1362)のものが2通、嘉慶2年(1388)のもの1通、応永年間(1394〜1428)のもの8通、文安元年(1441)のもの4通などがある。これらの多くは“旦那譲状”とされるもので、自分で所有する修験道の檀家(宗徒)の一部を分族に譲渡するというものである。そのうちの一つ嘉慶2年の「ともやす旦那買券」には次のようなことが記されている。
心さしあるによんで、さつまあさりにゆつりわたす二 |
(薩摩阿闍利) |
しよのたんなの事、かまはらのたう□いや太郎 八郎 |
(旦那) (鎌原) |
太郎 きやうさふ郎のぶるいきやう四郎 きやう八 |
(部類) |
やとう四郎入りたう このカミ四郎 めうゑんのぶるい |
(妙圓) |
又四郎 おゝまいのや四郎 す□四郎 |
(大前) |
いまいのきやうこさふ郎 |
(今井) |
かけい二年二月十四日 |
(嘉慶) |
きやうの大夫ともやす(略押) |
これは下屋刑部大夫ともやすが嘉慶2年に、一門の薩摩阿闍利に二所の旦那の権利を譲り渡したという証書である。文中、鎌原・大前・今井の名称が出ており注目されるが、これより更に古い貞治元年の譲状には、芦生田・袋倉・門貝などの名称が既に出ており、修験道の旦那が広く嬬恋の各地に広がっていたことがわかる。
宗教的な社会にあっては、旦那職は、一つの大きな収入源であって、武士が土地と人民を占有するのと同じ価値があった。下屋氏は修験道の総本家として分族にその旦那の権利を譲ってもなお、その総合的な支配権を掌握していたのであった。
下屋家の文書は、かつて“三原庄”とされる嬬恋村を中心とした地域は、北信濃の名族海野氏の後裔である下屋氏の統治する所であったことを示している。そして、その支配機構は、下屋氏を頂点とし、その内部の政治的実権は鎌原氏などの下屋氏の分族にまかされてはいたが、修験道とされる宗教によって、一族は統率されていたことを物語っている。
※この記事は広報つまごいNo.601〔平成14年(2002年)12月号〕に記載されたものです。