松島榮治シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(八十三)

コメコメについて

▲群生するコメコメ(オツムギ沢上流)

 文運が盛んとなった江戸時代の“化政文化”の頃、嬬恋の地を旅し、『上信日記』とされる紀行文を残した文人に清水浜臣がいる。浜臣は、国学者として著名な本居宣長の孫弟子で、村田晴海の直門とされている。

 この浜臣は、文政2年(1819)、江戸を発って善光寺に詣で、帰路、嬬恋の地を経て草津温泉に寄り、江戸に戻った。この間、各地の珍しい風俗や人情、そして、それらについての歴史的考証などを行い、『上信日記』を上梓したのである。

 日記中、嬬恋村に関わる部分がある。一部引用すると、

「…猶このなかれ(吾妻川)にそいてくたれば中居村、赤羽村也。此のあたりにこめこめといふ木多し。うつ木に似たるもの也。枝を折りて皮をはきとればうるわしき箸となる。土人常に用ふ。又若葉をあへものなとにしてくらふあちはいよし。…」

とある。

記すまでもなく中居村、赤羽村とは、今日の三原のことである。この三原区にコメコメとされる木が多くあり、これを使うと良い箸ができ、土地の人は常用している。また、若葉はあえものなどにして食べると美味しいと記しているのである。

 早速、周囲の人々に、このコメコメについて尋ねた。しかし、180余年の歳の流れは、その存在すら曖昧なものとし、まして、それを食べたとする記憶は全く蘇って来なかった。

 この解明に半ば諦めていた時に、今井の市村君雄さんに会う機会があり、その際、コメコメについて尋ねたところ、市村さんはしばらく考えていたが、“コメゴメ”だろうと言い、それならば、幼い頃、箸を作り使い、若芽を食べたような気もすると言う。また、後日、鎌原の山崎喜太郎さんから、資料館に一枝が届けられ、コメコメの実態が明らかとなった。

 平成13年春、市村さんの案内で、今井のオツムギ沢の上流を訪ね、山間の沢に面した平場に、コメコメの自生する群落をみた。その際、細い枝と一掴みほどの若葉を採取した。帰宅して、枝は茹でて皮をむくと美しい箸ができた。若葉は、天ぷらにしたが、タラの芽より多少“もちもち”とした感じであったが美味しく頂戴した。

 清水浜臣がこの地で見聞した事柄が、180余年を経過して今に蘇ったのである。

※コメゴメとは、ミツバウツギ(ミツバウツギ科ミツバウツギ属)のことです。

※この記事は広報つまごいNo.606〔平成15年(2003年)5月号〕に記載されたものです。

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