松島榮治シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(八十四)

トックリ穴の洞窟

▲入り口から洞窟奥部を望む

 遺跡の中に、“洞窟遺跡”と呼ばれるものがある。これまで群馬県で発見されている著名な洞窟遺跡には、利根郡月夜野町の「八束脛洞窟」、吾妻町の岩櫃山に所在する「鷹ノ巣洞窟」、中之条町沢渡の「有笠山洞窟」などがある。この内、鷹ノ巣洞窟の場合は、弥生時代の特殊な墓所、有笠山洞窟は、一時的な生活の跡と見られている。

 嬬恋村には“トックリ穴”とされる洞窟遺跡がある。この遺跡を5月23日、地元の宮崎英夫さん、この辺りの山に詳しい上下水道横沢信夫課長補佐の案内で、教育委員会黒岩則行係長、資料館の熊川紀世彦主任らで訪ねた。

 遺跡は、干俣牧場の西方、トックリ沢とされる小流を渡った先、標高1370メートル前後の突出した小尾根の先端部、川床から、約20メートル登った南面にする斜面に所在していた。

 その規模・形状は、入り口が縦に長い合掌状で、その下幅は約1メートルと狭い。そこを入ると幅6.7、奥行き4.5、高さは約2.5メートルで、トックリと言うより巾着状を呈していた。

 この洞窟は、昭和47年群馬大学史学研究室によって調査が実施され、床面にイノシシ・シカ・ムササビなどの骨の混じった灰層が確認され、その周囲に土器や石器の破片、鉄製品の破片も発見されている。

 これらの出土品の中で特に注目されることは、弥生時代後期の“樽式土器”と、古墳時代初めの土器とされる“石田川式土器”の破片が認められていることである。そして、その樽式土器は、信州の弥生式土器の影響によって成立したものであり、一方、石田川式土器は、北関東の平坦部で成立し、その後、周囲の地域に波及したものとされることである。

 水稲栽培を生活の基盤とする弥生時代、そして、それに続く古墳時代の土器片が、この山奥の、しかも洞窟の中で発見される意義は大きい。例え一時的にしろ、この洞窟が、当時の人々の生活に関わっていたことを示しているからである。

 その理由は必ずしも明らかではない。しかし、、発見される土器の性格からして、信州地域と関東の平坦地との文化的交流が、この地を介して、すでに行なわれていたことは確かである。

※この記事は広報つまごいNo.607〔平成15年(2003年)6月号〕に記載されたものです。

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