松島榮治シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(八十五)

信州街道の中の嬬恋

▲鎌原−大前の信州街道跡
(馬踏道といわれている)

 信州街道とは、上州から信州に通ずる道のことである。その本筋は、中山道高崎宿で分岐し、榛名山の南西麓を通り、大戸宿に至る。それより万騎峠を越えて、浅間の裾廻を鎌原宿・大笹宿と経て、鳥居峠を越して信州に至った。信州に入ると仁礼宿・須坂宿を通り、善光寺または飯山方面に通じていた。この道は江戸時代にあっては、上州と北信地域を結ぶ主要な道であり、中山道と北国街道の脇往還としての性格をもっていた。

 一般的に道の名称は、行き先の地名をとって付けられた。したがって、この信州街道とされる名称は、上州側からの名称であって、信州側からは上州街道などと呼ばれていた。また、部分的に通過する宿の名をとって“大笹道”“大戸通り”などとも呼ばれた。さらに、本筋からの分岐もあり、大笹宿からは、中山道の沓掛宿に通ずる“沓掛街道”などもあった。

 この鳥居峠越えの道は、戦国期には、真田氏の上州への進路であった。しかし、近世に入ると、北国街道→中山道を経由して、江戸に行くよりも、10里(40キロ)余りも短いという利点から、飯山・須坂・松代の3藩の廻米輸送のほか、商品輸送路として重要な役割を果たした。

 このため、街道筋には「荷継宿」や輸送業務などを取り仕切る「問屋」が存在したが、その権限は大きく、またその収益も大きいものがあった。そのため、廻米輸送や商品継立てをめぐっての紛争も絶えなかった。

 慶安3年(1650)には、北国街道筋の屋代宿(更埴市)から追分宿に至る7宿が、信州街道筋の仁礼宿と大笹宿を相手に、駄賃荷物の輸送路をめぐって訴訟を起こした。また、元禄11年(1698)以降しばしば、信州からの荷物を沓掛宿に搬送する大笹宿を相手に、鎌原・須賀尾・大戸・三ノ倉。下室田・神山の大戸通り6ヵ宿が、荷物を招致しようと訴訟を起こした。さらに、享保7年(1722)からは、干俣・門貝・赤羽根・芦生田・中井・西窪・小宿村など7ヵ村が、信州で物資を買い入れ、これまでの宿や問屋の既得権を侵して“付通し馬”とされる駄送などを行い、問屋などと対立した。

 こうした度重なる紛争をみても、いわゆる信州街道の歴史的変遷の中にあって、嬬恋村地域の存在には、極めて大きいものがあったのである。

※この記事は広報つまごいNo.608〔平成15年(2003年)7月号〕に記載されたものです。

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