松島榮治シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(八十六)

潤いを求めて

▲高原の花(高谷洋一作品)

 資料館のロビーには、何時からともなく1枚の油絵が飾られてきた。30号ほどの大きさで、画題はなく隅には、N.kuroの署名がみられる。

 その絵は僅かに鉄さび色を混ぜながら、緑と黒を基調にした面的な広がりが、上から下方に向けて塗り重ねられている。上端部分には、カボチャをはじめとした果実と見られるものが2ヵ所に盛られている。しかし、この絵は単なる「静物画」とは思えない。塗り重ねられた画面全体に、作者のただならぬ製作の意図を滲ませている。

 作者であるN.kuroとは記すまでもなく黒岩信之さんのことである。彼は、大笹に生まれて西中で学び、上田の高校を経た後、東京芸術大に進み、昭和52年同大学を卒業した。その後、彼はドイツのミュンヘン芸術アカデミーに入学し、57年の秋、胃ガンのため30歳の若さで亡くなったのである。

 芸大の時の指導教官であった大沼映夫教授は、『追悼文集』の中で、「感性の素晴らしさ」を讃え、「今後の仕事が軌道に乗り、本物になりつつあるのが分かりすぎるほど理解できていた」とし、その早世を惜しんでいる。

 資料館のロビーに飾られた1枚の絵は、その黒岩信之さんの遺作だったのである。

 資料館には、もう1枚の油絵がある。浅間山麓にアトリエを構え、十数余年にわたって、主に嬬恋の自然を描き続けてきた画家高谷洋一さんの絵である。高谷さんは、このほど「天明3年浅間山焼け図」とされる150号(縦2.5メートル、横2メートル)の大作を完成させ高い評価を得たが、昨年秋、高谷さんはその絵を資料館に寄贈されたのである。

 寄贈された高谷さんの絵は、資料館の1階から2階にかけての壁面に飾られているが、その臨場感と迫力は、見る人を圧倒させると共に驚嘆させている。

 今、仮に嬬恋村の“村づくり”のキーワードを文化による“潤い”としてみよう。志半ばで夭逝した黒岩信之さんにしても、嬬恋の地にアトリエを構えて、嬬恋の自然を描き続けている高谷洋一さんにしてみても、その制作の原点は、潤いを求めてのことと思考される。

 資料館ではこの程、高谷さんの作品38点をお借りして「高谷洋一油絵展」を開催した。もとより≪文化による潤いのある村づくり≫を目指してのことである。

※この記事は広報つまごいNo.609〔平成15年(2003年)8月号〕に記載されたものです。

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