松島榮治シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(八十七)

田代牧場のこと

▲周辺を囲む土盛跡
(休暇村西南方約400メートル地点)

 過日、現在環境省が進めている「鹿沢自然学習歩道」の設計者である「平倉直子設計事務所」から、学習歩道対象地域内にある“土塁(土塚)”についての照会があった。早速、休暇村鹿沢高原の秋野施設課長さんの案内で現地を訪ねた。

 現地調査の結果、土塁(土塚)とされるものは、村上山西麓の休暇村鹿沢高原を中心とする地域に所在していた。その横断面は、下幅2.6、上幅0.9メートル、高さ1.5メートル前後の台形をしたもので、湯尻川の右岸に沿って、山裾をやや長方形に囲むかのように広範囲に存在していた。秋野さんによれば、確認される長さは、延べ1,800メートルにも達すると言う。その状況から、土塁とされるものは、田代牧場を囲む土盛と容易に判断することができた。

 『嬬恋村誌』によれば、田代牧場は、嬬恋村の発展の基礎を築いたとされる戸部常太郎が明治42年に開設し、その面積750町歩、放牧牛馬数年600頭に達したとある。その後、牧場経営は、長男彪平に引き継がれたが、「群馬の統計書」によれば、大正2年には、その面積850町歩に達し、放牧数牛350頭、馬65頭とある。面積や放牧数ともに、村内の嬬恋・湯ノ丸の2牧場を凌ぐ活況を呈した。しかし、何故か昭和8年には、その経営を群馬県畜産聨合会に引き渡している。

 田代区は、明治初年に書かれた『上野国郡村誌』によれば、「…馬鈴薯・蕎麦・粟・稗等を種芸ス。水利宜シと雖モ全村皆畑ナリ」と記している。また「天保10年の明細帳」によれば総反数は約10町歩、その内訳は下畑約1町2反、下々畑約7町8反で、下々畑が大半を占めている。冷涼さと荒蕪地が如何に多かったかを示している。

 この不利なそして厳しい条件を克服し活用することは、田代区にとって、避けて通ることのできない重要な課題であった。

 田代牧場が、開かれ経営された、明治40年代から昭和初期にかけて、田代区ではこれまで重要な換金作物であった馬鈴薯の栽培がウイルス性の病菌などによって衰退する一方、後に基幹農作物となるキャベツの栽培を模索する時期でもあった。

 田代牧場は、まさにその時期にあって、区民わけても戸部常太郎・彪平父子が取り組んだ果敢な“村おこし”のための行為であり、その証なのである。

※この記事は広報つまごいNo.610〔平成15年(2003年)9月号〕に記載されたものです。

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