松島榮治シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(八十九)

信州加澤郷薬湯縁起

▲信州加澤郷薬湯縁起の書き出しの部分

 鹿沢温泉紅葉館の小林康章氏家は、代々『信州加澤郷薬湯縁起』とされる資料を伝承している。加澤は鹿沢の旧名で信州とあるのは、当時、この地が信州に属していたためである。よって、本資料は鹿沢温泉に関わる話を記したものである。

 その末尾には、「元禄5年壬申(1688)5月8日 願主宣傳道周居士」とあり、さらに続けて「關山下禅子 笑華堂霊傳誌焉」と記し、この縁起を薬師堂に奉納したのは宣傳道周であり、筆者は笑華堂霊傳であることが分かる。

 その概要は、幸徳天皇の時、信州加澤に熱湯が涌出し、光明がこの湯を照らした。神のお告げによれば、薬師如来が衆生を救うために、湯を涌出させたとのことであった。そこで、里人は御堂を建て像を安置した。

 その後、清和天皇の時、かつら親王と言う琵琶の上手な皇子がいた。ある日、皇子が琵琶を奏でていると燕が飛び込み、琵琶の音に遊んでいたが、その燕の糞が皇子の目に入り、皇子は目の病に冒された。皇子の目の病は懸命の治療でも治らなかった。そこで、全国に、何か効果があったら奏上するようにとの命令が出された。

 これに対し、信州の深井の某が、加澤の湯が効果があると奏上した。そこで皇子は、信州に下向し、深井の邸に留まり、加澤の湯に入ったところ、忽ち、目の痛みはなくなった。しかし皇子は、盲目となってしまったため、都には帰らず、真田の郷に御殿を構え、深井の娘との間に一子を儲けた。これが真田家の惣領滋野氏先祖である。
 …中略…
 私(宣傳道周)も、病のため苦悩したが、この湯に入って平癒した。これは、薬師如来のご利益と思い、参拝して帰ろうとしたところ、一人の翁に出会った。私は、翁に私の祖先はこの湯の由来を知っており、書いたものも所蔵していると言うと、翁は、その由来を記して薬師如来に奉納したらと言った。私もそう思ったので、この湯の縁起を記すこととしたと。

 薬湯縁起は、おおよそ以上のように記している。その内容は説話であって、勿論、史実ではない。しかし、盲人との関わりを説く滋野氏の始祖伝承を示す古伝を含んでいること。また、記述と奉納に至る事情が語られている点など、地域に残る伝承文学の資料として貴重である。

※この記事は広報つまごいNo.612〔平成15年(2003年)11月号〕に記載されたものです。

(八十八)環境教育について へ   (九十)鬼岩を訪ねる へ

シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(一)へ

シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(二)へ



赤木道紘TOPに戻る