松島榮治シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(九十三)

西窪城に想う

▲対岸鎌原城跡から望む

 江戸時代に書かれた『上毛古城記』や『上毛故城壘記』によると、嬬恋村に鎌原城と西窪城の在ったことが記されている。それについて、山崎一の『群馬県古城塁址の研究』があり、それに拠って、『嬬恋村誌』には、「…西窪発電所の西どなりの小高い山で、水路鉄管の南にある ----中略--- 西北に壕と思われる窪地があり、東と北と腰曲輪址が見られる。…」とある。

 しかし、大変不思議なことは、その地を訪ねてみてもそれらしいものは認められないのである。

 そこで改めて、その位置や状況について検証することとした。

 その結果、西窪城は、村誌に書かれているような“小高い山”ではなく、その四方に所在する緩い傾斜地であることがほぼ明らかとなった。

 城壁は、北西から南東方向にはしる尾根状の地形を、幅40メートル前後、長さ約120メートルの堀によって断ち切り、その丘尾を利用したもので主郭と見られる部分は、長辺約150メートル、短辺120メートル前後のほぼ長方形をしたものと推定される。この地は、北側を堀切で限り、東側は万座川の断崖に臨み、西側は地滑りのため改変されているが、僅かに腰曲輪らしいものが認められる。南側は緩い傾斜地(畑地)を経て吾妻川の崖に至るが、その間に副郭の存在した可能性がある。いずれにしろ、戦国期の武将の居住に相応しいものがある。

 ここに居城した西窪氏は、「下屋家文書」によれば貞治元年(1362)の譲状の中に「さいくほのや平太郎十郎」とあり、下屋氏は西窪氏に旦那職を譲ったことを記している。以来西窪氏は、西窪の地を支配するようになったと考えられる。

 在地領主となった西窪氏は、はじめ関東管領上杉氏に属したが、戦国期に至って鎌原氏と共に武田氏の麾下に、武田氏滅亡後は真田氏に属して沼田藩に仕えた。天和元年(1615)沼田改易後は、大笹の関所番を勤めて明治維新にいたる。その間、鎌原・羽尾氏の争いなど、終始鎌原氏と行動を共にした。

 この西窪氏の城としての西窪城の時期は、必ずしも明らかではない。しかし、戦国期に築城され、江戸時代にまで至ったことは確かである。

 この西窪城について、今、小高い山の裾に「嬬恋かるためぐり」のスタンプ台がひっそり置かれているのみである。

※この記事は広報つまごいNo.616〔平成16年(2004年)3月号〕に記載されたものです。

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