松島榮治シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(九十五)

大前村のこと

▲江戸時代の大前村の絵図
(黒岩親氏蔵)

 過日、大前の黒岩親さんが、1枚の絵図を資料館に持参された。享保7年(1722)と延享3年(1764)、再度にわたり、大前村の名主が代官宛に作成し使用した「大前村の絵図」である。現物は、多分その控えであろう。その大きさは、縦114センチ、横106センチで道・家・畑・山・川などが比較的克明に描かれ、昔の大前村を知るうえで貴重である。

 ところで、この絵図をみると浅間大明神など4社、阿弥陀堂などの堂が3ヵ所、他に3つの12神などを記し、他村に比較して社や堂の多いのに気づく。

 大前村の歴史は、少なくとも南北朝の時代にまで逆上る。『下屋家の文書』によると、貞治元年(1363)の譲状をはじめ、大前の古地名である“おうまい”あるいは“大まや”と記した古文書が6通もある。その内容は、修験道の宗主家である下屋氏が、その分族に檀家を譲るとされるものである。

 ここに、修験道とされる宗教によって支えられる社会が成立する。大前村に神社やお堂などが多いのはこうした状況を反映したものではないだろうか。

 また、別にこの絵図をみて感ずることは、大前村から大笹村へ、あるいは鎌原村へ、そして西窪村への通路は明示されているが、その北方に隣接する干俣村や門貝村への通路、さらに、その地を経由して、信州へ通ずる山越えの道には全く触れられていないことである。

 古く“毛無道”など山越えの道は、上州側と信州地方を結ぶ重要な道であった。しかし、寛文2年(1662)大笹に関所が設けられると、干俣村や門貝村を経由する山越えの道は通行禁止となった。大前村から干俣村・門貝村、さらに信州への山越えの道が記載されていないのは、そうした状況によるものなのかも知れない。

 反面、大前村から大笹村、あるいは鎌原村への道筋が、詳細に記されている。これは、大前村は、江戸後期以降、硫黄や明礬の稼ぎが盛んとなり、その駄送をめぐって、これまで荷物輸送に大きな利権をもっていた大笹村や鎌原村と対立し、訴訟問題が起きていた。そうした際、この絵図面は、暗に大前村の立場を主張したものだろうか。

 1枚の絵図は、自ら語ろうとしない。感心をもって語りかけた時に、はじめて、その来歴を語り始めるのである。

※この記事は広報つまごいNo.638〔平成16年(2004年)5月号〕に記載されたものです。

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