松島榮治シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(九十九)

よみがえった延命寺

▲延命寺の発掘調査の風景

 鎌原に所在した延命寺が創建されたのは、浅間大明神の信仰が新たな展開をみせた14世紀の頃と思われる。地方領主鎌原氏は、浅間山に登り霊感を得たことにより創建を発意したとされるが、延命寺の創建は単に仏教的な意図によるものではなく、浅間山神の信仰に基づくものでもあった。

 古く、浅間の山神信仰は、“本地垂迹の思想”によって、密教(天台・真言宗)と結び付いた。その結果、浅間大明神は虚空蔵菩薩の化身とされ、延命寺には虚空蔵菩薩が安置され、仏教的な尊崇が行われ同時に、浅間の山神の崇拝にもなされていたのである。すなわち延命寺は、浅間大明神の“別当”(神宮寺)として、あるいは、その“里宮”として神仏両面の性格と機能を果たしていたのである。

 こうした延命寺でも、歴史的変遷の中にあって、何らかの盛衰もあったようではある。しかし、一貫して幾たびとなく大小の噴火を繰り返す浅間山と向かい合って暮らす、浅間山北麓に住む人々にとって、心の支えであり拠り所であったに違いない。

 このような名刹延命寺が天明3年の浅間山噴火の押出しの際に、どのような対応をしていたか、その詳細について知る由もないが、吾妻町の片山豊滋氏所有の『浅間山噴火記録(抄)』には、「…八日ノ朝、和尚村方百姓ヲ連(れ)、浅間山へ御祈祷仕(する)トテ、半途マデ登ル。山追(押)出(し)和尚モ百姓モ流出、跡(後)ヨリ登リ候百姓ハ助カリ候ト言。…」とある。

 噴火の被害をできるだけ少なくすることと、浅間山の平穏をとり戻すために、住民と共に懸命な祈りを捧げる延命寺住職の姿が彷彿として蘇ってくる。しかし、こうした祈りも空しく住職は、浅間山の中腹で倒れ、延命寺もまた地中深く埋もれてしまったのである。

 その延命寺は、昭和60年から6年次にわたって、本格的な発掘調査が実施された。その結果、観音堂の北方200メートル地点、現地表下6メートル地点の位置にその存在が確認された。確認された延命寺は、そのごく一部であるが、本堂・庫裏・納屋とみられるもので、そこからは、小仏像など数十点の仏具や、陶磁器をはじめとした百点を越す生活用品の発見があった。災害後200年沈黙を続けてきた延命寺は蘇ったのである。

※この記事は広報つまごいNo.642〔平成16年(2004年)9月号〕に記載されたものです。

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