松島榮治シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(百一)

“ロウ石山”を訪ねる

▲林の中に現存する焼成炉
〔教育委員会事務局提供〕

 干俣区仁田沢集落の北西、数百メートル離れた山腹の緩斜面に、かつての盛況を示す巨大な焼成炉が、雑木の中に立っている。そのあたりは、戦中から戦後にかけて、ロウ石を採掘した鉱山跡なのである。

 昭和15年、干俣の干川石蔵氏が同所立坪地区で炭窯造成中に、たまたまロウ石の鉱脈を発見した。これを機に、干川仁平氏や羽生田清太郎氏らによって、試験的に小規模な採掘が開始された。当初、この場所は、“ロウ石山”と呼ばれ、10人ほどの人たちによって作業は続けられていたらしい。

 時に、太平洋戦争の最中とあって、この鉱石がアルミニウムなどの軍需物質として重要視され、昭和18年、その採掘は“軍需産業”の指定を受けた。以来、日窒鉱業が「上信鉱山」として、国家政策の一環として採掘されることとなった。

 その状況について、昭和19年の頃には250人ほどの人が採掘のために動員されたとされ、その多くは干俣の民家に分宿し作業に従事したと言う。なお、その中には7〜80人ほどの朝鮮半島出身者もいたとされている。このため、現場には事務所や7棟もの建物が建ち、鉱山区としての形を整えた。

 採掘した鉱石は、山元から索道で二田沢へ、それからはトラックで芦生田へ、芦生田からは草軽電鉄の貨車で軽井沢へと出荷されたが、その産出は、年間15,000トンにも達したと言う。しかし、これほどの大事業も、昭和20年8月の終戦を契機に一切終わりを告げた。

 昭和29年、この良質な鉱石は見直され、小渕光平氏によって「光山電化上信鉱業所」として再開発された。光山電化は、専ら耐火煉瓦の資材として採掘し、「日本鋼管会社」などに出荷するなど活況を呈した。昭和32年には、高さ14メートル、直径4メートルの焼成炉を2基設置した。この炉は、生鉱石中の結晶水を放出させ、収縮と膨張の変化を防ぐためのものであって、これによって、取引価格は2倍近くにもなったとされる。

 しかし、昭和38年、火災が発生し、鉱山事務所や宿舎が焼失した。加えて、鉱脈も尽きかけていたことから閉山となった。突然の幕切れであった。

 村に活況をもたらした、近代産業の発展に不可欠とされるロウ石山の採掘跡は、訪れる人もなく静まりかえっていた。

※この記事は広報つまごいNo.644〔平成16年(2004年)11月号〕に記載されたものです。

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