松島榮治シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(百二)

吾妻鉱山について

▲硫黄焼取り精錬のはじまり
「写真で見る ふるさと嬬恋のあゆみ」より

 吾妻鉱山の発見は、明治41年の晩秋にまで逆上る。鳴尾の熊野神社の神官佐藤右膳と同所黒岩国作の両名が、干俣牧場の北端松尾沢と大名沢の合流点付近に“泥湯花”を発見したことに始まる。

 以後、その鉱業権は数人の手を経て、大正3年「群馬硫黄株式会社」に移った。ここに「吾妻鉱山」としての採掘が始まったが、業績は振るわなかった。その後。大正6年「吾妻硫黄株式会社」がこれを引き継ぎ、本格的採掘に着手。大正8年には、458トンを採取。翌9年には小規模な“焼取り精錬”を開始し、生産は軌道に乗った。このため山元から芦生田までの索道も敷設されるなど、硫黄の採掘はいよいよ盛んとなった。

 その後、業績は持続し、昭和2年の生産量は、本邦第4位の硫黄鉱山にまで成長した。それを反映して、昭和5年の山元の世帯数55戸、人口は258名を数えた。特に、昭和11年から13年頃まで山は全盛を極めた。しかし、盛況は持続しなかった。昭和14年からは日中戦争の影響を受け、事業は次第に縮小化され、経営は「帝国硫黄鉱業株式会社」に移った。その後は、太平洋戦争のため物資・労働力不足などもあっていよいよ衰退した。

 この間、山元には、昭和11年から電灯が灯り昭和16年には干俣小学校の分校として“吾妻小学校”が開設されるなど、吾妻鉱山は、“鉱山集落”としての体裁を整えた。

 第2次大戦後は、復興の波にのり、加えて朝鮮戦争の特需もあり硫黄の需要は高まった。特に、昭和26年硫黄の統制が撤廃されると、価格の大幅値上げもあり、硫黄ブームに湧いた。こうした状況の中、昭和28年からは焼取り精錬の中に“蒸気精錬法”が導入され、品位の向上と採鉱石の完全利用に成功した。

 ただ、その頃より硫黄の価格は、暴落と高騰を繰り返し、安定した状況ではなかった。それでも生産は続行され、昭和35年の山元の世帯数は292戸、人口は1318名を数えるなど空前絶後の有様であった。

 しかし、昭和38年以降は、不況による価格の低迷、加えて石油精製の際に排出される“回収硫黄”のため、硫黄の採掘は衰退の一途を辿り、遂に本鉱山も昭和46年閉山となった。

※この記事は広報つまごいNo.645〔平成16年(2004年)12月号〕に記載されたものです。

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