松島榮治シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(百三)

石津鉱山を訪ねる

▲石津鉱山の長屋雪景色
「写真で見る ふるさと嬬恋のあゆみ」より

 過日、資料館の熊川紀世彦主査と石津鉱山跡を訪ねた。その地は予想に反して、人里離れた山間・山奥の今井川の水源地、白根の山裾、標高1,500メートル前後の地点に所在していた。

 現在、そこには大東文化大学の研修施設のほか、数戸の山荘があるだけで静まりかえっていた。しかし、辺りには、鉱滓によって埋め立てられた大規模の平坦地、段々に造成された宅地跡、そして配水施設に使用されていたとみられる、錆びた太い鉄管などがあり、かつての盛況の様を僅かに伝えていた。

 石津鉱山の発見については明らかでない。当初は、草津の旅館主霜田氏が所有し、後に東京在住の小林氏が鉱区を買収し採掘を始めた。その後、今井長治氏が鉱業権を得て採鉱を続けたが軌道には乗らなかったらしい。

 昭和7年になって、北海道硫黄株式会社がこれを買収して、「小串鉱山石津鉱」とし、10年に採鉱を開始した。13年には鉱床を確認し、15年には精錬施設を設置して生産体制に入った。しかし、戦時体制下にあった19年には「硫黄鉱業整備令」も出され、事情は順調には推移しなかったが、小串鉱山の支山として、80余名によって採鉱は継続された。

 終戦によって状況は一変した22年に、“焼取り精錬窯”2基を設置するなど施設を拡大し、「石津鉱業」として独立。24年には現地に従業員寮を新設したり、精錬釜を6基に増やすなどして、年間6,000トンを生産する中堅鉱山としての地位を確立した。ここに、世帯は数10戸、人口245名を越す、鉱山街としての形を整えた。

 昭和26年に始まる戦後の経済復興、加えて朝鮮戦争の特需景気は、硫黄の生産ブームを呼び起こした。ここに、精錬窯13基を設けるなど増産体制を確立した。しかし、その後は、価格の高騰・暴落などもあり、事業は必ずしも安定したものではなかった。

 そうした中であっても、石津鉱山は、坑内から貯鉱場まで、そして貯鉱場から精錬窯までの運搬・配鉱施設を機械化するなど、近代的鉱山として生まれ変わり、昭和35年の石津鉱山街は世帯数175戸、人口755人を数えるなど活況を呈した。

 しかし、44年に始まる回収硫黄の生産はこの鉱山をしても、閉山止むなきに至った。

※この記事は広報つまごいNo.646〔平成17年(2005年)1月号〕に記載されたものです。

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