松島榮治シリーズ『嬬恋村の自然と文化』(百四)

嬬恋村の近代的遺産

▲草軽電鉄で硫黄を搬ぶ
「写真で見る ふるさと嬬恋のあゆみ」より

 昨今の社会的・経済的変化や、国民の文化に対する意識の多様化は、文化財保護の理念や制度の再検討を促すようになった。

 ここに、平成7年文部省は、江戸時代末期から第2次世界大戦終結の頃までの、「交通・通信施設、治山・治水施設、生産施設、その他の経済・生活活動に係わる遺跡など」わが国の近代化に大きな役割を果たした文化財を“近代化遺産”と呼び、その保存と活用についての施策を行なうようになった。

 これに先駆けて群馬県教育委員会では、平成2・3年度、文化庁の補助事業として「近代化遺産の総合調査」を実施した。この結果、群馬県では983件、吾妻郡では128件の近代化遺産の存在が明らかとなった。中でも長野原町では40件、次いで中之条町では39件の近代化遺産が登録された。こうした中にあって、嬬後村では、半出来橋、旧嬬恋村役場、東電の西窪・鹿沢・今井発電所そして田代湖など6件が登録された。しかし、なぜか小串・吾妻・石津などの硫黄鉱山は登録されなかったのである。

 嬬恋地域の硫黄の採掘が、本格化するのは、江戸時代の後期以降のことであるが、精錬の過程を経て採掘するようになったのは明治の中期以後のことであった。その後、生産は順調に伸び、特に大正8・9年頃は需要の増大により、その生産量も高まり、内地の需要を満たした外は、中国などに輸出されるなど、日本の産業の一つとなった。しかし、日中戦争とそれに続く第2次対戦中は、「硫黄鉱業整備令」により、戦争資材の補強のため鉱山施設が供出されるなどの影響により衰退した。

 第2次世界大戦終了後は、化繊鉱業やパルプ工業の復興などにより、硫黄の需要は高まり、消費量も増大し“黄色いダイヤ”などともしてはやされた。さらに、朝鮮戦争の特需景気もあり、硫黄鉱業は空前の盛況を呈した。しかし、30年代にはいると、経済不況と“回収硫黄”などにより価格は暴落し衰退の一途を辿ることとなる。

 かつて、嬬恋村第一の産業として、3,000余名の人口を擁し、日本のそして嬬恋村の近代化に大きな役割を果たした嬬恋村の三硫黄鉱山は、46年閉山の止むなきに至った。しかし、その小串・吾妻・石津の三硫黄鉱山こそ嬬恋村を代表する近代化遺産なのである。

※この記事は広報つまごいNo.647〔平成17年(2005年)2月号〕に記載されたものです。

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