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岩櫃山登山と潜龍院、郷原城址探索コース(一日コース)

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岩櫃城址地図東吾妻町のシンボル、標高802mの『岩櫃山』は、多様な動植物種や巨木、南面約200mの絶壁、奇岩・怪石が連続する山容など、吾妻八景を代表する景勝地…などという一般的な言い回しでは表現できないほど、魅力溢れる山です。

岩櫃山山麓には縄文時代の『ハート型土偶』(国指定重文)が出土し、東国文化時代の古墳群が多数確認されています。また、山頂付近の岩陰には弥生人の再葬墓が確認されています。中世では吾妻氏、真田氏の歴史舞台となり、両氏とも岩櫃にて吾妻を治めていました。鎖場を登り山頂から吾妻平野を鳥瞰すれば、古代から信仰を集めてきた岩櫃山のパワーに圧倒されることでしょう。

当地の歴史に精通したガイドがご案内します。


岩櫃山登山と潜龍院、郷原城址探索コース(一日コース)


二重掘【日程】
平成27年10月31日(土)、11月1日(日)
 共に 9時~16時頃まで


【集合】
コニファーいわびつ中庭 8時45分

【コース】
コニファーいわびつ ⇒ キャンプ場 ⇒ 沢通り ⇒ 岩櫃山頂 ⇒ 鷹ノ巣遺跡 ⇒ 天狗の架け橋 ⇒ 密岩通り ⇒ 潜龍院 ⇒ 郷原城址 ⇒ 十二様通り ⇒ 尾根通り ⇒ 岩櫃城本丸跡 ⇒ 平沢登山口 ⇒ コニファーいわびつ
岩櫃城址
【対象】   鎖場でも登山できる健康な男女

【募集人数】  20名(先着順)

【参加費】
お一人様3,000円(傷害保険料込、昼食は含まない)

【服装・持ち物】
岩櫃山登山道長袖、長ズボン、リュックサック、登山靴、飲み水、弁当、雨具、ゴミ袋、身分証明書、タオル、靴ひも予備、行動食、防寒着、防寒帽、地図、コンパス、筆記用具、自然観察用具など

【主催】  NPO法人 浅間・吾妻エコツーリズム協会

【協力】  あざみの会、東吾妻町観光協会

【申込方法】
以下のボタンよりオンライン申し込み画面へ進み、必要事項をご記入し送信してください。

※今回は特別に、FAX送信用申込書 をご用意いたしました。

【お問合せ/申込先】
岩櫃山登山道〒377-0801 群馬県吾妻郡東吾妻町原町5103
NPO法人 浅間・吾妻エコツーリズム協会 赤木道紘まで
TEL/FAX:0279-25-7593  携帯080-5655-3009
E-mail : infoアットマークecotourism.or.jp

【申込〆切日】   10月28日(水)

【このイベントのチラシURL】
【岩櫃城忍びの乱 特別企画】岩櫃山登山と潜龍院、郷原城址探索コース(一日コース)





■ 岩櫃山について

岩櫃山(いわびつやま)は、標高802メートルの岩山で、吾妻八景を代表する景勝地として知られています。南面は約200メートルの絶壁。奇岩、怪石からなる切り立った山容は、中国の南画のような趣があります。
山頂からの眺望はすばらしく、眼下には東吾妻町や中之条町の市街地、眼前には上州の山々が広がり、晴れた日には遠く富士山も望めます。新緑と紅葉のシーズンには多くのハイカーでにぎわいます。(東吾妻町HPより)

岩櫃山登山岩櫃山登山

岩櫃山登山岩櫃山登山




■ 岩櫃城について

岩櫃城由来記(東吾妻町観光協会の看板より)

吾妻八景を代表する岩櫃山(標高八〇二メートル)の中腹東面にあるこの城は、年代は定かではありませんが、鎌倉時代初期のころ、吾妻太郎助亮により築城されたといわれています。城郭の規模は一.四キロ平方メートルと上州最大を誇り、後に甲斐の岩殿城、駿河の九能城と並び武田領内の三名城と称されました。その後、斎藤氏の支配するところとなり、永禄六年(一五六三)武田信玄は上州侵略のため、重臣真田幸隆に岩櫃城攻略を命じました。ときの城主は斎藤基国(または憲弘)といわれ堅城を利して奮戦しましたが、ついに落城してしまいました。こうして岩櫃城は武田氏の手中に落ち、信玄は幸隆に吾妻郡の守護を命じました。

天正二年(一五七四)に幸隆が世を去り、岩櫃城主には長子の信綱が収まりましたが、翌年、長篠の戦いで信綱、昌綱兄弟が戦死したため、真田家は幸隆の三男、昌幸が相続しました。

その後、昌幸の長男信幸が支配し、信幸の弟幸村も少年時代をこの城で過ごしたといわれています。天正十八年(一五九〇)北条氏の滅亡により、信幸は初代沼田城主となり、岩櫃城は沼田の支城として、重臣出浦対馬守を城代としました。そして、幾多のドラマの舞台となった岩櫃城も徳川家康が発した一国一城令(慶長二十年〔一六一五〕)により、四百年余の長い歴史を残し、その姿を消しました。

岩櫃城址岩櫃城址

岩櫃城址岩櫃城址




■ 潜龍院跡(せんりゅういんあと)について

武田勝頼を迎えようとした御殿跡(設置看板より)

戦国時代の天正十年(1582)三月、甲斐の武田勝頼は織田・徳川の連合軍に攻められていました。軍議の席上、真田昌幸は岩櫃城に勝頼を迎え入れ、武田の再挙を図ることを提案して許されました。昌幸は急ぎ帰国し、岩櫃山南面のこの地に勝頼を迎えるための御殿(現在は石垣が残るのみ)を三日間で造ったと言われています。

しかし、勝頼は吾妻の地に来ることかなわず天目山で自刃してしまいました。このときに勝頼が吾妻に赴いていたならば、この地は戦乱の舞台として時代の中心的立場に置かれていたことも十分に推測されます。

急造された御殿は昌幸の一族である根津潜竜斎という山伏が拝領して寺とし、巌下山潜竜院と称して明治にいたり、明治一七年にその護摩堂が原町顕徳寺の本堂となっています。

潜龍院跡



■ 郷原城について

岩櫃城南西にある郷原城は、かつては岩櫃城や潜龍院の物見の役目と考えられてきましたが、近年の調査によると「馬出し」「土橋」「主郭」など、規模は小さいものの手の込んだ構造をしており、城として十分な機能を有していることが解っています。旧草津街道をこの城内に経由させ、関所としての役割を持たせていたのかもしれません。

郷原城址









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