雁ヶ沢城は実際の立地では雁ヶ沢ではなく、鍛冶屋沢に面しています。真田氏と同族の横谷氏の本拠地で、真田吾妻忍者の棟梁であった横谷氏にふさわしい険しい地にあります。
加沢記に「大将は一徳斎(真田幸隆)・・・都合三千騎を二手に分け横谷雁ヶ沢口、大戸口に押寄」とあります。この時すでに雁ヶ沢城があったのか、それとも後日、真田氏によって築かれた物見の砦なのか、解明はされていません。真田幸隆の軍隊が吾妻渓谷を越えて進軍することは旧国道の渓谷絶壁や雁ヶ沢城につづく痩せ尾根(屏風岩)の形状を見るに不可能であるために、謎は深まります。
根小屋城縄張図(吾妻郡城塁史より)
根小屋城は、最初は江見氏で後に浦野氏の居城となった城です。浦野氏は信州滋野氏の出で本家は大戸城であり真田氏と同族です。戦国時代、大戸城主大戸真楽斎(本姓浦野)と思われる重俊は遠州高天神城において戦死し、根小屋城主であった長男行貞はそれを機に修験となって吉祥院と号したそうです。二男村信も大勝院と号し修験となりました。これが長野原町林地区にあった大乗院です。
忍者の本拠地『雁ヶ沢城址』と、修験の居城『根小屋城址』。二つの険しい山城をたっぷり探検する一日です。
当地の歴史に精通したガイドがご案内します。
■ 『雁ヶ沢城址』と『根小屋城址』探検エコツアー
【日程】
平成27年 4月26日(日) 9時~15時頃
【集合】
吾妻渓谷 渓谷パーキング 9:00
※渓谷パーキングの場所は、東吾妻町「吾妻渓谷ガイドマップ」をご覧の上ご確認ください。
【コース】
渓谷パーキング ⇒ 雁ヶ沢城址探検 ⇒ 渓谷パーキング ⇒ 車で移動 ⇒ 適宜昼食 ⇒ 車で移動 ⇒ 根小屋城址探検 ⇒ 終了後、解散
【対象】 藪こぎを伴う険しい山城を探検登山できる健康な男女
【募集人数】 20名(先着順)
【参加費】
一般3,000円/会員1,500円(傷害保険料を含む)
※関係機関、連携団体の方は応相談
【服装・持ち物】
長袖、長ズボン、リュックサック、登山靴、飲み水、弁当、雨具、ゴミ袋、身分証明書、タオル、靴ひも予備、行動食、防寒着、防寒帽、筆記用具、自然観察用具など
【主催】 NPO法人 浅間・吾妻エコツーリズム協会
【申込方法】
以下のボタンよりオンライン申し込み画面へ進み、必要事項をご記入し送信してください。【お問合せ/申込先】
〒377-0801 群馬県吾妻郡東吾妻町原町5103 小池宅
NPO法人 浅間・吾妻エコツーリズム協会 赤木道紘まで
TEL/FAX:0279-25-7593 携帯080-5655-3009
E-mail : infoアットマークecotourism.or.jp【申込〆切日】 4月22日(水)
【このイベントのチラシURL】
『雁ヶ沢城址』と『根小屋城址』探検エコツアー
■ 案内人プロフィール
冨澤 朗(とみざわ あきら)
1959年東吾妻町生まれ。「東吾妻城壘史研究会」主宰、潜龍院跡の保存整備、岩櫃城の紹介などをしている地域おこしグループ『あざみの会』会長(2015年度)。戦国時代の吾妻にいた無二の強兵【富澤豊前守】(吾妻七騎)末裔の一人。学生の頃から吾妻の歴史を歴史書や古文書から、あるいは現地を徹底調査し研究を続けている。藤原吾妻氏、斉藤氏、戦国時代の吾妻の地における武田、上杉両氏の代理戦争、真田氏と斉藤氏の興亡、吾妻の中世城郭等について精通している。
■ 雁ヶ沢城と横谷氏のこと(参考:岩櫃城興亡史(http://www.denno2488.com/))
雁ヶ沢城はまたの名を道陸神峠の要害ともいいます。この要害を尾根ルートで越えようとした場合、吾妻渓谷の名所である断崖・屏風岩の上を渡り抜けると、道陸神峠に出て、その先は長野原町川原畑、林の郷…と続きます。しかし、足場の悪い痩せ尾根は牛馬の通行はもちろん不可能で、人も通るためにはよほどの覚悟を持って望む道になります。
屏風岩の痩せ尾根の肩状地形の先端の高まりに要害があり、東北に下郭、南に館跡があります。城の規模としては砦の程度で、狼煙を上げる役割、あるいは吾妻渓谷を監視する役割を担っていたのかも知れません。
また、ここから岩櫃方面を望むと、岩下城が見えます。郷原城ははっきり分かりませんが、ここから上げた狼煙は郷原城でも十分確認できたと思われます。雁ヶ沢城に拠った横谷氏は、信州滋野一族の望月氏の流れを組みます。と同流の望月氏の子孫に重時という人がいました。その重時に三人の子があり、長男を重則、二男を三友之介、三男を源二郎といいました。長男は、木曾氏に仕えて宇治にて戦死。二男三男は、源頼朝の三原狩りのおり勢子として加わり、将軍よりお褒めの言葉をいただき二男は湯本、三男は横谷の姓を賜りました。これが横谷氏の始めと伝えられています。
戦国時代の横谷氏は武田氏の幕下となり真田昌幸に属し、代々横谷村を知行していました。菩提寺は岩下応永寺です。「加沢記」に出てくる横谷左近の生涯はまさに武勇の二文字に尽きます。長い戦国の一生のなかで、長篠の戦い、小田原の役、関ヶ原、大阪の役と主立った戦には皆、参戦しています。真田氏が吾妻に侵攻する前は、鎌原氏についたり岩櫃斉藤氏についたりしていた横谷氏でしたが、永禄6年(1563)、真田氏の岩櫃城攻略が始まってからは、一貫して真田氏に属していたようです。
関ヶ原の戦いの際には、沼田藩の武士である横谷左近は西軍の真田昌幸に従いませんでしたが、弟(三子)の庄八郎重氏は昌幸に従い、徳川軍を大いに悩ませました。大坂冬の陣、夏の陣においては左近は生き残りましたが、弟(次子)の横谷惣右衛門が討死しています。横谷一族の武勲は沼田藩中でも突出していました。
その後、子孫の一人は松代に下り真田家中となり松代横谷氏の祖となり、った。沼田藩改易後は知行地横谷村で浪々の身となりましたが、その後大笹関所番を仰せつかり、微禄ながら代々つとめ明治維新を迎えています。
■ 根小屋城址と浦野氏について(参考:岩櫃城興亡史 、吾妻郡城塁史)
三島根小屋城は「鉄塚(てつか)」と呼ばれる丘城の部分とその西700mに主郭を持つ「斥候山(せっこうさん)(城山)」の二つで構成されています。斥候=物見の意味ですが単なる物見郭ではなく、明らかに鉄塚を下曲輪とした要害城です。
鉄塚は長さ200m、幅50mの平坦な丘上の城で北、東、南は高さ40~50mの急斜面に守られ、数個の別郭になっていたらしいが今は不明です。若干の腰曲輪があります。
そこから城山に向かう所に枡形状の虎口が見られますが、城山側が内、鉄塚側が外になっています。
頂上の本丸は径10mに過ぎず、東から南に腰曲輪をめぐらし、西南に二条の堀切と二つの武者屯を持ちます。東にも二つの堀切があって段々下りに90m程下った所からやや広い郭取りがなされ、そのあたり150mの間が城の中核です。ここには八個程の郭があって土居や井戸跡も見えます。
初め江見氏、のちに浦野氏の城となりました。
根小屋城縄張図(吾妻郡城塁史より)
江見氏の名は、「吾妻郡記」および「再編吾妻記」に記されています。三島の領主である根小屋城主・江見下野守は、名主の江見三郎らと共に百姓一揆をおこし岩櫃城主斉藤越前守と争い敗れました。江見氏は信州へ落ち延びたそうです。
浦野氏は信州滋野氏、海野・望月・祢津の一族です。長男海野小太郎幸明の流れは早く三原荘を開拓し、その一族は今の嬬恋村の母体を形づくりました。二男系の根津小次郎直家(祢津、浦野の祖)の系統は長野原から坂上、岩島地区に根付きました。三男望月三郎重俊の系統は三原庄のうち草津、六合村方面へ移住し、望月、横谷氏として岩島地区に移住しました。
戦国の時、大戸城主大戸真楽斎(本姓浦野)と思われる重俊が大戸城主でしたが、遠州高天神城において戦死し、後長子行貞(右衛門進)は根小屋城主であったがこれを機に修験となって吉祥院と号したと伝わります。二男村信は浦野大善と名乗っていたが、後大勝院と号し修験となりました。三男信英は下野守と称し、「天正11年本国信州へ行く」とだけ記載されていますが、この人が「加沢記」にのっている三島の地頭浦野下野守であると思います。この人は、この事から真田氏に仕え信州上田に移動したと思われます。その後その一族は三島に移り、村信は後大乗院住職となり、海野長門守の二男幸照は村信の養子となり大乗院を継ぎ、生年行事職となり伊賀の守(沼田藩藩主)の時代には城主の祈願所をつとめています。
天正18年以降の浦野氏の事象ははっきりしません。しかし、三島の吉祥院はその後江戸時代を通じて栄え明治まで続きました。そして明治政府の修験宗解散の令により廃院となったものと思われます。