手子丸城縄張図(吾妻郡城塁史より)信州街道の要点をおさえる重要な関所であった大戸は、吾妻岩櫃としても、関東方からの侵入を防ぐために非常に重要な場所でした。大戸にあった城は手子丸城といいます。
魔の年であった天正10年(1582)、武田勝頼、織田信長共に味方の裏切りで自刃し、これにより空白地帯となった旧武田領を巡って、周辺の大大名である徳川家康・北条氏直・上杉景勝が争った天正壬午の乱が起こりました。北条氏直は一挙に上野を併呑しようと沼田・大戸の両方面から真田領に襲いかかりました。手子丸城は落ち、大戸(浦野)兄弟は戦死します。数年の後、真田信之は手勢800騎を率い、北条方の富永主膳軍5000が防衛する手子丸城を僅か一日で奪還しました。この時、信之は17歳(数え年)、しかも初陣です。手練の家臣・吾妻真田忍者たちの功績はもちろんですが、信之の強さもまた、ただ事ではありませんでした。
『手子丸城』を見学した後、枝垂れ桜と山門が美しい大運寺やエドヒガンザクラの大木がある旧大戸小学校で昼食をとり、最後に信之が陣城したという『仙人窟』を訪問見学します。
当地の歴史に精通したガイドがご案内します。
■ 『手子丸城址』探検と真田信之陣城『仙人窟』訪問エコツアー
~ 大戸の桜咲く頃に ~
【日程】
平成27年 4月19日(日) 9時~15時頃
【集合】
JR吾妻線群馬原町駅 北側ロータリー 9:00
(車で乗り合わせて大戸へ向かいます。)
【コース】
群馬原町駅 ⇒ 車で大戸へ移動 ⇒ 手子丸城址探検 ⇒ 大運寺、旧大戸小学校の桜を見ながら昼食 ⇒ 仙人窟訪問 ⇒ 車で移動 ⇒ 群馬原町駅(解散)
【対象】 藪こぎを伴う山城を軽登山できる健康な男女
【募集人数】 20名(先着順)
【参加費】
一般3,000円/会員1,500円(傷害保険料を含む)
※関係機関、連携団体の方は応相談
【服装・持ち物】
長袖、長ズボン、リュックサック、登山靴、飲み水、弁当、雨具、ゴミ袋、身分証明書、タオル、靴ひも予備、行動食、防寒着、防寒帽、筆記用具、自然観察用具など
【主催】 NPO法人 浅間・吾妻エコツーリズム協会
【申込方法】
以下のボタンよりオンライン申し込み画面へ進み、必要事項をご記入し送信してください。【お問合せ/申込先】
〒377-0801 群馬県吾妻郡東吾妻町原町5103 小池宅
NPO法人 浅間・吾妻エコツーリズム協会 赤木道紘まで
TEL/FAX:0279-25-7593 携帯080-5655-3009
E-mail : infoアットマークecotourism.or.jp【申込〆切日】 4月15日(水)
【このイベントのチラシURL】
『手子丸城址』探検と真田信之陣城『仙人窟』訪問エコツアー ~ 大戸の桜咲く頃に ~
■ 案内人プロフィール
冨澤 朗(とみざわ あきら)
1959年東吾妻町生まれ。「東吾妻城壘史研究会」主宰、潜龍院跡の保存整備、岩櫃城の紹介などをしている地域おこしグループ『あざみの会』会長(2015年度)。戦国時代の吾妻にいた無二の強兵【富澤豊前守】(吾妻七騎)末裔の一人。学生の頃から吾妻の歴史を歴史書や古文書から、あるいは現地を徹底調査し研究を続けている。藤原吾妻氏、斉藤氏、戦国時代の吾妻の地における武田、上杉両氏の代理戦争、真田氏と斉藤氏の興亡、吾妻の中世城郭等について精通している。
■ 手子丸城と大戸氏のこと(参考:岩櫃城興亡史(http://www.denno2488.com/))
原町岩櫃城記録によると大戸城は初め新羅左衛門助が在城したと事が記されています。新羅氏には二系統あり、一つは清和源氏の流れで、源義家弟の義光が新羅三郎と称しました。この系統からは、佐竹氏、武田氏が出ています。もう一系統は藤原秀郷系で、田原氏族で田原忠綱の子忠広が新羅三郎を称しています。この大戸の新羅氏がどちらの系統なのか、年代も明かではありません。
戦国時代は、手子丸城は大戸氏の本拠となった城でした。大戸氏は本姓を浦野氏といい、信州の滋野氏の一族です。鎌倉時代に幕府に仕えた海野幸氏の子幸継の七男に浦野七郎なる人物がありこの人が浦野氏の祖となった人だと伝わっています。七郎の末に浦野三河守貞春という人があり、この時代(戦国時代)、信州浦野村より上州吾妻郡大戸村に移り大戸城に居住し、所の姓をとって大戸氏を名乗ったようです。
岩櫃城主斉藤憲広は妹を大戸真楽斎に嫁がせて縁戚とし、大戸氏を幕下にしました。その頃の羽尾氏と鎌原氏の領地争いでは斉藤氏・大戸氏は羽尾氏に荷担し鎌原氏と争っています。しかし真田氏の吾妻侵攻により、同族の鎌原氏をはじめ大戸氏も真田方につくことになり、さらに長野原城主海野氏等の寝返りで岩櫃城は落ち、その後の嵩山合戦で斉藤氏は完全に没落しました。
大戸真楽斎は天正8年(1580)、武田勝頼の遠州高天神城攻め(長篠の戦いの前哨戦)に参加し討ち死にしたとも、北条氏の手子丸城攻めにより滅びたとも言われています。その後の手子丸城は真田氏と北条氏の戦いになり、取ったり取られたりの一進一退が続きました。その後小田原北条氏の持ち城となり、大戸真楽斎の長子大戸重次が城主となっていましたが、小田原の役の時西軍に下たので、大戸氏は没落しました。その後、成立した大戸藩の城主岡氏は、大坂の陣のおり豊臣秀頼に牒を通じたとして改易となり、後切腹となりました。
■ 仙人窟について
仙人窟の歴史(設置看板より)
この岩窟は南面に白い観世音及び十八羅漢の石像があり、先住民族の穴居の跡ともいわれ、北の隅に清水が湧出し人二人分の飲料に足る程度という。伝説に日本武尊の東国征討の帰途に宿泊せし處なりともいわれる。かって中世近世において吾妻三十三番観世音札所の中に名を連ね、信仰のあった場所で中世の時代、吾妻三十三番順礼歌に
― 終夜(よもすがら) 岩屋に響く法の声 近いも深き谷川の音 ―
と唄われていた。
向かい合う手古丸城跡は戦国の世、天正八年(1580)城主大戸真楽斎は遠州高天神に於いて戦死、天正十年(1582)手古丸城も北条氏の為に落城している。窟中に古墳が三つあるのは、城主大戸真楽斎の石碑だと伝えられている。天正十四年(1586)真田信幸は五百騎を率い、北条網可等の二千騎と戦う。信幸は軍を仙人窟に伏せ、大返して大勝し手古丸城を奪還した。北条勢は大運寺前を西へ敗走したという。
徳川時代の国学者、清水浜臣著(1847)の上信日記によれば、寛永年中に松厳という坊さんはここに寺を創造し大丹寺と名付けた。延宝年間(1675)に潮音禅師は弟子の心月草菴を住ませ、観音及び羅漢十八躯を建設したとのこと。当時三百段を数えた?も水害により百八十段にすぎない。亦獅子窟は仙人岩屋の山頂にあって径が険しく土地の人といえど所在を知らない者があるという。真下を流れる温川の瀬音が仙人窟の洞窟に?して往時の信仰の盛んなりし頃を物語っているかのようである。
洞窟 幅八間(約14米) 深さ十四間三尺(約二十二米) 高さ一丈五尺(約四、五米)
吾妻町観光協会 吾妻町史蹟保存会
■ その他の見どころ
大運寺の山門とシダレザクラ、ソメイヨシノ、ヤマザクラ
旧大戸小学校のエドヒガンザクラ